酪農支援システム「レポサク」と、開発者大野宏の“旅” 《後編》

 山形で始まったインターネットビジネス

今の大野の拠点は、酪農王国北海道でも屈指のエリア

大野は、2003年に帰国して山形市の東北芸術工科大学の2年次に編入。在学中にビジネスのきっかけを掴んだ。

「インターネットビジネスを学ぶコースの課題で、英語の名前を、意味のある漢字に置き換えるWEBサービスを考えました。英語名のカタカナ表記を載せる辞典を買ってきてサークル仲間4人とデータベースづくりに4ヵ月を費やしました。
たとえば、Adamだったら愛駄無とも亜田務とも書けるけど、当て字で置き換えるだけではなく漢字に意味を持たせてパターンを作る。3万語ぐらいやったと思います。
ただ最終的に何を売るのかなどビジネスにまでは考えが及ばず、その企画は頓挫しましたが、この時に会社って作れるな、社長になれるなと思いました」

山形で会社を設立。大学卒業の2年後の2007年「海外版遊戯王輸入代行 – はねまん」をリリース。初年度で3000万円、翌年8000万円、3年目に1億を売り上げた。
そして、大野は大学のサークルからずっと一緒だった友人と「これからは食料危機に対応すべき」と傍からみると突飛なビジネス転換を図った。

「農業をやろうと思いました。山形にはサクランボやラフランスやブドウなど美味しい果物がたくさんある。そこで、耕作放棄地を手掛けようとしましたが飛び地や荒れ地しかなかったため、セリ権を買って自分たちのやり方で売り歩こうと画策しました」

ところが2011年3月11日。震災を境に描いたことが白紙となる。
収入基盤の輸入トレカが東北、山形では受け取れなくなって、3月中に九州の久留米市で水道も電気もないアパートでひとりパソコンに向かい仕事を続けた。
もちろん当面東北の農産物が売れるとは思えなくなった。
事態は好転しない。
海外版遊戯王カードが2013年から日本で使用禁止になることが発表されて、「はねまん」の継続困難が確実になった。
大野は、事務員一人を残してスタッフに退職してもらい、カードの在庫を整理した。

取材に訪れたのは10月末。もう紅葉も終盤

北海道へ

収入の柱だった「はねまん」は休止したが、トレカ売買サイト「ガッチャJP」やトレカ大会主催者向けシステム「イザジン」など複数サイトは運営を続け、「イザジン」は月間PV200万を超えて広告収入も見込めるようになるも、大野はもやもやした気分を抱えたままだった。

「その頃はいろいろめちゃくちゃでした。ゲーム制作会社の外部ディレクターとしての仕事させてもらったり、開業資金を捻出するため就職しようと東京へ行ったりもしました」

2016年、中標津に住む父親が病に倒れたタイミングで、山形に拠点を残しながらも北海道と行き来するようになり、今度は中標津産の「行者にんにく」に興味が湧き、栽培農家の手伝いを始めた。
そして前述のTMRセンターの方からの相談が舞い込んできたのだった。

強みは着想。ツールは作れる人が作ればいい

大野が、ITエンジニアリングの領域で働くイメージとはかけ離れているのはまず、ゆったりとした語り口調だろう。

「以前は楽しむためには刺激的である必要があったけど、最近は周りの人が喜ぶことも楽しい。それと僕はいつもふわふわしていて言語化した時点でブレる感覚がある。雑談に答えは求めません。ただ先を見るだけのビジョナリーなことにもあまり興味はわかないです」
「強みは着想。ツールは作れる人が作れば良くて、僕が作るのは概念です。これをやるにはこうしたほうがいいと考えるのが楽しいです」

インターネットビジネスにおいてはシェアを取ることが肝心だ。「レポサク」事業の将来象を聞くと、

「酪農の世界を変えてやる!と強く思う感じではないです。ただ何か爪痕は残したいし、酪農家の人たちに役立ちたいし、もちろんお世話になった人たちに恩返しもしたいです」

バンカーサイロはたくさんの古タイヤで抑えられていた

大野の案内でTMRセンターのバンカーサイロを見に行った。
ずらりと並ぶバンカーを目の前にして「かなり大きいな」というのが第一印象。
幅12m、高さ3mの間口に積まれた牧草に掛けられたシートを、たくさんの古タイヤで抑えてあった。
「あのタイヤを積むのは僕も一緒になって作業しました」
許可を得ないとあまり近づくことはできない。思わぬ菌がサイレージの品質に影響するからだからとのこと。
たしかに漬け物作りに似ていると思った。


◇取材・文・写真/福田知孝
◇「レポサク」の概要はこちら https://reposaku.com/

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